そのキャラはどれもが実は「神の分身」なんだけど、キャラでいる間はキャラになりきってて、神であることを思い出せないわけよ。
■「悟り」「目覚め」が起きても人生はやはり続いていく
ところが、ここ数年の間に「悟りブーム」みたいのがあって、その影響で「自分は神だった」なんて口に出して言う人はさすがにいないけど「自分はキャラだった」と気付く人も増えてきたみたいよね。
気付いたからといって、その瞬間から現実をガラッと変えることはさすがにできないけど、気付くことでその現実の辛さに心理的な一線を引けるようになる。
レミゼラブルの舞台でフォンテーヌになりきって救われない人生をバルジャンに出逢うまでただ嘆き悲しみ続けるんじゃなく、フォンテーヌを「演じている」自分に気付いて、フォンテーヌが置かれた酷い環境も「ただの舞台」周囲の冷たい人々もみんな「キャラクター」と知るようなこと。
「この現実は宇宙の意識が生み出している幻想」と気付けば、生きるのはとても楽になるわ。
この宇宙の意識だのキャラだのってスピリチュアルな捉え方を全く知らない他人からは「ただの現実逃避」としか思えないだろうし、気付いても現実がまったく変えられなければ結局無意味に思えるかもしれないわね。
でも、気付いても何一つ変わらない、変えられないことなんてないのよ。例えば、本当にその舞台の役が嫌なら舞台から逃げ出せばいい。逃げるまでしなくても、人生の舞台は日々がぶっつけ本番のアドリブで、その時々で脚本はどんどん変わっていくから、覚え込まされたりセリフや演技以外をしたっていいのよね。
そうしたら、バルジャンに出逢う未来は訪れないかもしれないけれど、別の未来にたどり着くかもしれない。もっと幸せな経過をたどってコゼットを連れたまま、それでもやっぱりバルジャンとは出逢って再婚して幸せに長生きできるかもしれない。
で、突然かつ無理やり占いの話に繋げるけど、西洋占星術であれ他の占いであれ「生年月日から導き出される『生まれ持った運命』」って、このフォンテーヌでいえば「美しい」「幼少期は過酷な環境に置かれやすい」「ダメ男に引っかかりやすい」「男に蹂躙されやすい」「お金に恵まれにくい」「有力者との縁」「子供を手元で育てにくい」くらいのざっくりしたものだけなのね。