今回はいきなりタイトル通りの本題だけど、ぶっちゃけ、
前世でどんな人生を生きたか、善人だったか悪人だったかと、今世の人生の内容は、関係はあっても、幸・不幸とは関係ない
のよ。
なぜかというと、まずは前回の終わりにもちょっと触れたけど「幸せ不幸せの基準も時代によっても人によっても違う」わけね。
■幸せ・不幸せは「その瞬間」だけ切り取ったもの。人生全体で見ると逆転することがある
異論もあると思うけど、幸せ・不幸せって「そのとき」だけのことなのね。まあ、完璧な幸せは長続きしない、ってのはうなづいてくれる人も多いと思うけど。人生万事塞翁が馬ってほんとでさ。
世の中には「見方を変えれば」「本人の心一つで」幸せと不幸せが逆転することってあるじゃない?例えば、「夫が働きに出るのを許してくれないから専業主婦」と聞いて「旦那さん男気あるのね!養われててうらやましい!」と思う人もいれば「旦那さんに全部依存しなきゃなのか。好きな仕事もできずに窮屈そう。かわいそう」と、ひがみじゃなく本当に思う人だっている。
で、そうなった本人にしても、結婚前までものすごくやりがいがあって「この仕事が大好き!天職!」ってのをやれてたとして、そんな男に惚れて「仕事か彼か」究極の選択で「天職を捨てた」なら、それは「結婚による不幸」かもしれない。
でも、もしその彼女が仕事に恵まれずずっと低賃金でやりたくないことをボロボロになりながらやってたとしたら、「結婚まですごく不幸」で、結婚によってすごく幸せになった、ってなるわよね。
こういう幸せ・不幸せの逆転現象はいくらでもあると思うのね。
★どうとらえようにも「不幸」な経験も「幸せ」に変える「人生の達人」もいる
だけど、どう考えても客観的に見れば「できれば一生、経験しないで済むなら経験したくなかった」ような「逆転しようのない不幸」もあるわけよね。
それってアタシが思うには「虐待親の元で育つ」とか、事件事故の被害者になって後遺症が残っちゃう(心理的にも)とか、難病とかで。それを「見方を変えれば、幸せかも」とは口が裂けても言えないし、自分が被害者で、スピリチュアルおばさんが目の前でそんなこと言ったら、思わずぶん殴っちゃうと思うけど。
ところが、すごい人になると、そういうのも克服しちゃって「人生の糧」にしてたり、アイデンティティの一つとして誇りにしてる人もいるじゃない?で、しっかり「幸せ」と言い切れるようになってるケース。
生い立ちの不幸や病気や事件事故がきっかけで、それがなければ出逢えなかった素晴らしい出逢いを経て、運命の伴侶と添い遂げる人もいれば、世間的に名を成すこともある。そんな大それたことじゃなくても、親友とか心から信頼できる誰かに出逢って、男女の恋じゃなくとも、人間的な深い愛情を経験できたりとか。
そういう人たちって「人生の達人」だと思うのよね。なんというか、分かりやすい大きな幸せは巡ってないんだけど、日常の小さな幸せをしっかり拾い上げてカウントして味わい尽くす能力、不幸な出来事もうまく消化して栄養にしちゃったり、バネにして飛躍しちゃったり。
普通なら、やけっぱちになってめちゃくちゃな人生送ってもおかしくないと思うのよ。虐待親にブスブス言われて成長したせいで劣等感強くて整形しまくってリスカ繰り返してる、みたいな子がいたとして(夜の世界にはザラにいるのよね悲しいことに)「同じ境遇でも頑張ってる人もいる」なんて言う権利は誰にもないと思うのね。
誰にもないし、自分が同じ過酷な状況でもなんとかなってるからって、他人に何か言うのは傲慢だと思うのよ。努力できる、前向けるってだけでも、それ自体がその人の生まれつき授かった強さだったり、何か頑張ろうって思わせてくれるものが、その人には見つかった=運が良かったのかもしれないし。